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放心
春夏秋冬 平成4年
「放心」ということの大切さを、つくづく思うこの頃である。教会にいた時も感じていたが、こちらに来て、組織の一員になり、独り暮らしの身になって、一層そのことを思うのである。
ふつう「放心」というと、あまり良くない意味に使われる。辞書(広辞苑)にも、「ほかの事物に心をうばわれてぼんやりすること、心の身に添わないこと」とある。「放心状態」とか「放心の態(てい)」といえば、たよりなく危かしいことである。
しかし、「放心」には、それだけではなく、良いほうの意味もあるのである。同じ辞書にも、「心にかけないこと。安心すること。放念。放神。」などとある。手紙などで使う、「どうぞ御放心下さい」というのは、この例である。ここで私が申したいのは、この、良い意味での「放心」である。
おたがい人間は、心を持つことによって人間であり、心があることによって様々なよろこびやたのしみも味わうことができるのであるが、その反面、心があることによって悩み、わが心に苦しめられることが多いのも事実である。
つぎからつぎへと、心配や不満が心に浮かび、それが苦になり気にかかって、夜も眠れないということも少なくない。
こればかりは、いくら時代が変り、場所が違っても、人間に心があるかぎりどこまでもつきまとって、なくなるということがない。
いつの頃からであろうか、私はそういう時、「放心」ということを思い、「放心」に努めるようになってきた。つまり、もの思うことを止め、考えることをしばらく休み、われとわが心を解き放すのである。
「下手な思案はやめるにしかず」と自分に言いきかせ、心のスイッチを切ったような気になって、身を任すのである。
そうするうちに、わがはからいではないのに、新しい世界が開けてくるのである。
わが教祖も、同じようなことを語っておられる。
「まあ、みんな信心をせよ。金光大神は、どうにもならないと言われれば、じっと寝入るような心持ちになるのであるから、あなたらもそういう心になるがよい。どうにもならないと思う時にでも、わめき回るようなことをするな。じっと眠たくなるような心持ちになれ」。これはまさしく、いま私が求めている「放心」の世界ではないだろうか。
われを忘れて眠っている間にさえ、いやそういう時こそ、いきいきとはたらく霊妙な力のあることを信じたい。そしてこの力は、眠っている間だけでなく、起きて目がさめている間も、休みなくはたらき続けているものであることに気づき、それを信じていきたい。
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