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ともに生きよう
春夏秋冬 平成4年
伊勢にずっといた頃、心のつかれた時など遠いはるかなものに憧れるような思いで、よく朝熊山に登った。山はいつも静かに私を受け入れ、慰めてくれた。
穏やかな山の自然とともに、私の心に強い感動を与えてくれたものがある。それは、山上の金剛証寺の境内に建っていた高さ二十尺程の木の塔に書かれた、仏教の経典の短い一節である。
「願以此功徳 普及於一切衆生 皆共成佛道」
これがその一節である。少々間違っているかも知れないが、ほぼこのとおりであったと記憶している。
読み下せば、「願わくば、この功徳をもって、あまねく一切衆生に及ぼし、皆とともに佛道を成(じょう)ぜん」ということであろう。
その意味は、「この功徳(善い行いと、その結果としての仏のめぐみ)をすべての人に及ぼし、みな一緒に仏道を実践し、ともに成佛しようではないか」ということであろうか。
私はこのことばに、深い感動を覚える。また、この短いことばのなかに、仏教の一ばんたいせつなところが、よく出ているように思うのである。いや、仏教だけではない。すべての宗教の根本に通ずるものが出ているように思えるのである。
わが教祖様のご信心ご精神も、これと違ったものではない。表現が違うだけである。
「私が信心して受けたおかげを、みんなが受けてほしい。みんなに分かちたい。みなとともに救われ、神の子としてのいのちを輝かしたい。」
わが教祖様のご生涯をかけての願いは、ひとえにこのことであった。
よろこびを分かち合い、苦しみをともにし合いというのが、教祖様のご精神であった。
しかし、このことは、言うはやすく、行うことはむつかしい。誰しも自分のことで忙しく、人のことなどかまっていられないといった気持ちになることも、よくあることである。
しかし、辛いことやむつかしいことに出会い、それを乗り越えることに熱中して、人のことを忘れているというのと、自分さえよければ、人はどうでもよいという了見や人生観を持つというのとでは、天地の違いがある。
この違いが、お互いの人生や、大きくいえば社会のありかたまでに及ぼす影響は、想像以上に深く大きいのである。
自分のことだけをかまい、人のことは知らぬという了見は、暗く危険なものである。
ともすれば、自分のことだけを思い、わが身の利ばかりをはかりがちなお互いではあるが、そうであればあるほど、人のことを思いやり、みんな一緒に生きていこうという、明るく広々とした人生観を育てていかねばならないと思うのである。それが、天地のいのち、天地のこころでもあるのだから。
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