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きれいずくのない神
春夏秋冬 平成4年
「これまでは、きれいずくをする神ばかり。きれいずくをしては、人は助からぬ。この神は、きれいずくのない神ぞ。ここをよく、氏子、悟るが肝要なり」「きれいずくのなき神は、この神と医者ぞ」
わずか一年そこそこの短い期間ではあったが、教祖金光大神に親しく接し、数々の教えを受けてはそれを書き記し、今日に伝えられた、市村光五郎師の伝えのなかの一節である。
短い、一見謎めいたことばのなかにこもる内容は、深く大きい。これまでの日本人の神観念を揺さぶるようなものを含んでいるとさえ思える。不浄を嫌い、清浄を尊ぶことが、これまでの神の第一の性質であったからだ。
きれいずくのない神のたとえとして、医師が取り上げられているのが絶妙である。
思えば、医師が「きれいずく」をしては、医師のつとめを果たせないのである。医師は患者を治すためには、血にも膿にもまみれなければならない。臭い汚いと誰しも感ずるものにも、身をさらさなければならない。
患者の人間の善悪もかまってはいられない。苦痛に悶えている患者を前にして、「こんなことになったのは、あなたの心がけや行いが悪いからだ」と言って、治療しようとしない医師があるだろうか。何をおいてもまず苦痛を除き、病んだところを治そうとするのが医師であろう。病を癒すためには、人間の善悪や、貧富や優劣を問わないのが、医師の本来の姿であり、画目である。
神も同じことである、と言われているのである。神の本来のはたらきは、裁くこと罰することではなく、何よりもまず苦痛を除き、病を癒すこと、人を助けることであると言われるのである。
この教えに、私は深い感動を覚える。神の心、神の思いとはこれほどのものかと、感動せずにいられない。
それと同時に思われることは、そのような神の心にかなうためには、この自分はどうあればよいかということである。
これほどまでに広く大きく無条件の愛に応えるために、この身はどうすればよいのであろうか。
心痛み、悩ましいことに出会い、おのれの凡夫であることを思い知らされるたびに、金光大神のこのことばに救われ、助けられるのである。
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