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ありのままで
春夏秋冬 平成3年
今年も、はや十一月となった。月末ともなれば木枯らしも吹き、霜もおりるであろう。
秋の終り冬の始まりのこの月は、私にとっては格別になつかしい。そう感じるのは、この月十二日が、母の祥月の命日だからであろうか。母が亡くなってから、早いもので十七年がたった。
母の生前の常の言い草は、「神様ほど良いお方はない」ということと、もう一つ、「神様は何でもご存じや」ということであった。若くして幾たびも人生の辛酸をなめた母親は、けっしてきれいごとばかりでは生きられなかったであろう。生きるためには、いろいろな道を通らなければならなかったであろう。そのなかで、必死の思いで母がつかんだのが、よいことも悪いことも、「何でもご存じ」であって、しかも、「これほどよいお方はない」という神であったのではなかったかと、今になって思うのである。
ふつう私たちは、神に向かい神に何かを願うには、この身は清浄潔白でなければならないものと思いこんでいる。不浄なことや、我情我欲をせずにはおれないこの身が、たとえ神に願ったとしても聞き入れてもらえぬものと、なんとなく決めこんでいる。
しかし、そうは思いながらも、有限で頼りないおたがいは、いざとなると神に願わずにおれない。しかし、そういう時にも、なかなか素直にはなれず、なんとか体裁をとりつくろい、きれいな恰好をしようとする。俗にいう「頭かくして尻かくさず」である。私自身、こういう根性が、なかなか抜けないのである。
そういう私に「神様はなんでもご存じや」という母のことばは、重い響きをもって迫ってくる。「なんでもご存じ」の神は、表も裏も、よいも悪いも、まるでご存じの筈である。その眼を誤魔化し、逃れることができると思うのは、自分がそう思っているだけである。じっさいは、できはしないのである。
そうとすれば、逃げかくれしようとせずに、その身その儘の姿をもって、素直に神に向かうのが、自分も助かり神にも喜ばれる態度なのではなかろうか。
「ごらんのとおりの、こんな私でございますが」と、ありの儘をうちだして、わが心を神に向けていくことが大切なのではないだろうか。
「これまでは、きれいずくをするばかり。きれいずくをしては、人は助からず」「きれいずくのできぬが、お医者とこの神」といった教祖金光大神のことばが、晩秋の風の身にしみるこの頃、あらためて心に迫るのである。
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