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かわいいと思う心
春夏秋冬 平成3年
 「明石で烏をおとりにして雀を捕っていました。杭を打って烏をつなぎ、その前にえさをまいて、烏がいるからと雀が安心して来たところを、かすみ網をかけておりました。
かわいそうなことをすると思いました」という話を申しあげたら、「かわいい(かわいそうに)と思う心が、そのまま神である。それが神である」と仰せられた。
 金光教教典によって伝えられた、教祖様と近藤藤守師との対話です。
 ごく短いこの対話のなかに、宗教といい信心というものの、きわめて大切なところが、まことに簡潔明瞭に語られています。
 古くから、仏教においては慈悲すなわち仏であると説かれ、キリスト教では神はすなわち愛であると言われてきました。
 同じことをここでは、「かわいい(かわいそうに)と思う心がそのまま神である。それが神である」と言われています。少しの曖昧さもないはっきりしたおことばです。ことに「それが神である」という一句には、千金の重みがあります。
 神そのものは、声もなく形も無いものであられるのですが、その無形の神が、人間のなかに、かわいそうにという心のはたらきとして現れたまうのです。
 ふつうお互いは、かわいそうにと自分が感じたと思い、あるいは、かわいそうにと感じたのは自分である、と思っているのではないでしょうか。つまり、かわいそうにという心をわがものとし、自分の所有としているのです。
 ところがここでは、かわいそうにという心は、わが心に生まれてくるものでありながら、わがものではなく、神のあらわれであり、神そのものである、とおっしゃるのです。
つまり、「わが心の神」です。
 かわいそうにという思いが生じたとき、いま「わが心の神」が姿を現しておられると受けとらせて頂き、そのことに感謝し、その心と一つになって、一心に祈りたいものです。
 かわいい、かわいそうにという心が、お互い人間のなかにもっともっと大きくなっていったなら、べつに神様がおられなくても、人間はもっと救われ、世界はもっと住みよく、仕合わせになれるのにと、しみじみ思うときがあります。
 しかし、これは、よく考えていれば大変な思い違いなのです。かわいい、かわいそうにという心が起きているときは、すでにそこに神がすがたを現わし、はたらいていてくださっているのです。われもひとも、ともに助けられているのです。
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