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扉絵集



2017年10月号(No.790)
信心モラトリアム(猶予期間)
教会長


 世の中には「無神論者」と称する人たちがいます。私たちとはまるで相容れない人たちと思うかもしれませんが、そんなことはないのです。むしろ、なんだか可愛らしい人たちにも思えるのです。それは、彼らが無神論者だと名乗るとき、認めていないはずの神という言葉をなんのためらいもなく使うからです。無神論という言葉がそもそも神を前提にして成立していますし、神という語を離れて無神論を説明できた人を私は知りません。それより、神だ神だと口にしながら本気で信心しない人の方が多いのではないでしょうか。
 信心していると言っても、していないと言っても、自分の敵は結局この我情我欲以外にはありません。神様のお出ましを待つ以前に、人がそれを許さない。兎角、楽をしたいと思うのが人ですが、なかなかそうはさせてくれないのも、また、人です。天地総ぐるみで、人が真心になり愛になるように、改まりを迫るのです。それは、神がその本質において愛であり、人がその本質において神であるからです。ゆえに人はいつかはその愛を受け入れ、いつしか神の道を歩み始める。それが成長の自然な向きなのです。そのことを人がみずから悟り気づくことを可能にしてくれる気の遠くなるような猶予、どれだけ不実でも決して人を見捨てることのできない神のためらいに気づくとき、漸くにして愛の核心に触れることになります。私はそれを「御ためらい」と呼ぶのです。こんな至らない私みたいなものがのうのうと暮らしてこれたのも、この御ためらいのおかげです。だから忘れてはならない、神のこの途方も無い猶予に気づいた人は皆、揺蕩いながらも、辛抱強く、ただただ人の助かりを祈っていくことが希われていることを。
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