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扉絵集



2017年7月号(No.787)
食い扶持
教会長

 生まれてくるとき赤ちゃんが手をぎゅっとむすんでいるのは、自分の食い扶持を握ってくるからだと聴いたことがあります。幸せや夢を握ってくるという説もありそれも素敵ですが、食い扶持のほうが私はしっくりきます。なるほど、自分が育てるのでなく神様がお育てくださるわけです。私たち親はそれをお預かりしているまでのことです。その親神様が、かわいいわが子の食い扶持を削ったりするはずがないのです。確かに、「金光は世の余りで人を助ける」道であり、天地金乃神様の氏子である私たちは、食い扶持を削るどころか喰い余りのお賽銭で結構なおかげを蒙っているのではないでしょうか。
 神様から頂く食い扶持は無尽蔵であり、かつ無駄がありません。以前、ある方が急に多額のお金が入用になったものの算段がつかず、繰りあわせを願っていると、空いた土地を買いたいという人が現れ、それがちょうどそのくらいの額で売れ、お繰り合わせをいただくことがありました。多すぎず、といって足りないでもないわけです。逆に、今月は余ったからちょっと贅沢しようかと胸算用していたら、思いがけないことが起きて、そのぶんぴったり出ていくということもあります。
 人間は勝手なもので、余裕が出だすと気が大きくなり、分不相応なことをするようになります。わが力を頼ると、「神様に払っていただく」とは似ても似つかぬ、「神様にツケを回す」メグリを積む行き方に陥ります。用心して、生活の万事にこの神様のご差配をいただけば、行き詰まることはないはずです。親神様が手に持たせてくださった食い扶持は、同時に信心のよき稽古相手でもあるようです。一円に到るまで侮らず、一生よいお付き合いをしていきたいものです。
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