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つい先日、信徒のことで御祈念している最中、「何処其処に日が暮れるまでに着くことを目標にすれば着くが、日が暮れるまで歩くことを目的にするから着けないのだ」という言葉が頭の中を駆け巡った。一瞬なんのことかと思ったが、でも確かにその通りに思われた。 「神様はいつになったらおかげをくださるのだろう…」。解決の糸口が見つからない闇の中で、私たちはついそのような思いを神様に向けがちだけど、それは夜明けを求めて夕陽を追っているようなものだったかもしれない。たとえ夕陽を地の果てまで追いかけたところで朝は来てくれない。夜明けを希うなら、向かう先は西ではない。眠くても起き、暗くても東(ひんがし)へと向かっていくほうが確かだ。なぜならそのうち朝陽のほうから登って来るのだから。 このことは「世界の平和と人類の助かり」とのわが道の大目的への取り組みにも置き換えられるだろう。漫然と進むのでは意欲も起きず無理もできず、喜びも生まれない。期限を区切り具体的な目標を立てた方が早い気がする。記念祭の年はその意味で現状を顧みるとともに、新たな願いを頂くご時節と言えるのだが、現状はお道にどれだけ貢献できているのか、冷静に分析してみると忸怩たる思いに駆られる。 先日の会堂洒掃で「無理できる幸せを一つでも貰っていってください」と挨拶したところ、なぜか皆の動きがよく、いつもより輝いているように見えた。ほんの少しの無理にこれだけのことができたという喜びがついてくる。無理のない範囲でと言っていたら、神様の入る隙間は小さくなっていただろう。「これだけやればいいだろう」では、人の心はおろか、神の心が動くはずもない。皆の笑顔に映っていたのは、まぎれもなく神のお喜びであった。 次なる目標の手がかりを見つけた気がした。
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