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2016年6月号(No.774)
教会長交代にあたって
教会長

教会長交代にあたって

 先の大祭でお伝えいたしました教会長交代について、教主金光様のご決裁をいただき、五月二十四日付で不肖私が教会長を拝命いたしましたことをご報告申し上げます。
 本来、前職とともに退任就任のご挨拶など申し上げるべきところかもしれませんが、夫々に共通の思いを表す適当な一文を、若き日の前教会長(当時副教会長)が昭和四十八年に著した巻頭言に見つけましたので、ここに再掲載し、ご挨拶に代えさせていただきたいと存じます。
 立場は変われど、揃ってお道の御用にお使いいただきたいと願っております。どうぞよろしくお願いいたします。
教会長 高阪健太郎


神の許したまわぬもの 
『春夏秋冬』 高阪松太郎 著 第一集より

 神の喜び給うもの、神の求め給うこともあれば、逆に神の意にそわぬこと、認め給わぬこともあるはずである。それはなんであろうか。私は、それは、「慢心」であり、「驕り」であると思っている。
 人間には、だれしも長所とともに短所があり、強さとともに弱点があり、美しさもあればみにくさもあろう。嘘をついたり、羨んだり、落胆したり、なまけたり、いろいろな形はあるが、みな、なにがしかもっている性である。こういうものも、神の喜び給うものとは思われぬが、しかし、許されざるものとも、私には思えない。こういうものには、なにか、人間らしさというか、悲しさというものがつきまとっている。弱いもの、追いつめられた者が、苦しさのあまりみせる弱さや、もろさは、神を悲しませはしても、神を怒らしめるものではないのでなかろうか。
 これにたいして、「慢心」と「驕り」こそは、もっとも神の嫌いたまうものであり、どこまでも、認めたまわぬものであると思う。
 それは、人間の弱さや、いたらなさを忘れた姿であり、もっとも大切な謙虚さを失った姿である。
 これは、ただ個人だけの問題ではない。集団でも、企業でも、国でも同じことである。「驕れる者」は神の気感にかなわぬのであり、「驕りがましいことをすな、ものは細うても長く続かねば繁盛でない」「油断をすな、慢心がでるとおかげをとりはずすぞ」といった金光大神の言葉は、ただに、個人の心がまえだけを示されたものではないと思う。それは、広く遠く、人間の社会全体の動きをも照らしている。富や権力や地位に驕る者は、そのことにおいて神をも否むものである。
 今日の世において、驕り高ぶる者は誰か。しかし「なにごとも釘づけ」ではなく、「世はかわるもの」であり、長くは続かないだろう。社会がいかに変ろうとも、金光大神は、神のおかげを信じて謙虚に生き、実意にはたらくものとともにあられるだろう。
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