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扉絵集



2016年5月号(No.773)
後悔
副教会長

 東日本大震災から五年目の三月十一日、午後二時四十六分。その時刻に合わせて黙祷を捧げる予定であったが、何かと気忙しく、気づくとその時間は疾うに過ぎてしまっていた。夜のニュースに黙祷を捧げる人たちの崇高さを見て、その時をともにできなかったことへの後悔の念を覚えた。すぐに消えてしまいそうな、それはかすかなものではあったが。
 テレビの向こうには、津波で、最愛の家族を失った人々がいた。子どもを心配して学校に向かったがために、命を落としたわが娘を悼む母親。大切なものを取りに自宅へ戻ったまま、帰らぬ親の姿を探す息子…。どうしてあのとき行かせてしまったのか。そんな消そうにも消せない後悔の念を携えながら、人知れず生きている人が数多といる。私がたった今したばかりの後悔を心の中で精一杯増幅してみても、その痛みを察するまでには届かない。
 後悔、ときに思ってもみないようなかたちで、それは突然やってくるかもしれないというのに、誰もが後悔したくない、しないように生きたいと努力までする。でも、もしかしたら、これだけが向こうへ持っていけるものかもしれない。そんな気もするのだ。
 黙祷する。それはいつ、どこで捧げてもいい。ただ、生死を越えたいのちといのちの交流には、失われしものと残されたものとを繋ぐ橋が要るのだ。後悔は、きっとその橋となりうる。もしそれが何らの後悔も伴わぬようになったら、いかなる祷もかたちだけのものとなるだろう。
 誰の心にも、拭い去ることのできない後悔がきっとある。でも、どうかそれが、わが身わが心を責め苛むためにではなく、共感し、人と人とをつなぐものであってほしい。後悔の念に打ちのめされそうな人の傍にそっと寄り添える、そんな宗教者、否、人間でありたい。
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