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巻頭言

扉絵集



2018年9月号(No.801)
まごころ
阪健太郎

 米俵が三俵お供えされていました。
 「あれは誰が供えたのか」信者らが尋ねても、金光様は誰がとは言わず「『虫がついて、とても当たり前の収穫が見込めないと思い、神様にお願いしたところ、当たり前より余分にできたから、それだけお供えする』と参ってきたのだ」と淡々とおこたえになるのでした。
 その話をどこかで聞いた信者が、「信心して、余分にできたら、それをみなお供えすると自分で願って稲を作ったところ、平年より少ないのでお供えすることができない」と参ってきたということです。
 同じように願っても、心に連れて結果も違います。
 後者は「余分に穫れたぶんだけお供えするのでたくさん下さい」と願ったのです。しかし神様にはこう聴こえました。「当たり前の収穫は我が物、余分にくだされば供えますよ」と。あまりのおかげを蒙りながら天地の恵みを知らない者がここにもあるかと神様はお嘆きでしょう、なんて偉そうには言えません、「宝くじでも当たればどれほどでもお供えするのに」と思った方もご同輩。そんな不確かなものをあてにするまでもなく、頂いたおかげに今あるだけできるだけの誠で報いたいという、前者のような方が有り余るおかげをいただくのは、これが当たり前というものです。
 とは言えまるまる三俵も余ったのだろうか、当たり前にできるのは当たり前でないという感謝と慎み、お礼が余分に込められていたと思う。後者の方には一合の喜びもなかったのだろうか。

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