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在籍輔教 岡田典明
命のバトンは信心から -92-

 小生が主催しています市民講座『歴史と万葉の旅』で、受講生の皆さんにことあるごとに話していますことは、「歴史を学ぶということは、皆さんの命のバトンを明らかにすること」ということです。
 日本史や世界史など歴史の科目が不得意だったり、嫌いと答えた生徒に、その理由を尋ねますと、「暗記が苦手」「事件や人物、時代がごちゃごちゃになる」などの答えが返ってきます。中には「理科や数学のように、答えがはっきりしないから…」というような意見も出てきます。歴史嫌いの生徒の身になってみると、いずれの回答もなるほどと思わせられる内容を含んでおります。確かに、年号や事件名、制度や登場人物を正確に覚えなければ、テストにおいて高得点をとることは望めません。その限りにおいては、記憶力の良し悪しが勝負を決める基準となることは、ある意味認めてもよいでしょう。しかしながら、歴史の科目が「暗記の科目」と位置づけられることの危うさがここから生じます。
 歴史を暗記の科目と考えている生徒の多くは、事件も登場人物も、その時の年号も、ただ覚えるだけのもの、としかとらえていません。したがって自分との関係性など思いもよらぬことです。自分とは何ら関係のない事でありますから、いわば無味乾燥、まことに砂をかむような作業を強いられていることになります。
 著名な歴史学者であるE・Hカーが「歴史とは過去と現在の対話である。」と述べていますが、対話のない歴史教育にこそ問題がありそうです。戦後長い間、社会科の一分野としてしかあつかわれていませんでしたが、やっと高校では、地歴科として独立しました。歴史の教育が、本来あるべき位置に戻ったように思われます。すなわち、過去の出来事と自分とが向き合う、過去との対話がようやく実現しそうです。
 「今も昔も、これからなにほど年がたっても、人もきれねば、人の食う五穀もきれることはない。つぎつぎに種が生えて続いてゆく」のみ教えのとおり、お互い遠い過去からの命のバトンがあっての今日であることに思いをいたすことこそ歴史を学ぶ醍醐味でありましょう。
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