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扉絵集



岡田典明(在籍輔教)
命のバトンは信心から -88-

 ご理解に、「疑心のある者が参れば、『此方の言うことを真に受ける者には、そのとおりのおかげを差し向けてやるが、あれが何を言うかと思っている者は、おかげは受けられない。どちらでもせよ』と厳しく仰せられた」(高橋富枝の伝え)とありますが、実に厳しいお言葉であり、その折の教祖様の表情まで想像しますと、思わず自身の信心の在り方を振りかえざるをえません。
 長年信心をさせて頂いていても、なかなかみ教えを、真に受ける者になっていないのが現状です。どこかに自分の力や知識を頼んでいるようなところがありをしないか、我情我欲にまみれ、人ごころで平気な顔をして暮らしてはいないか、『どちらでもせよ』とのお言葉は、本当に身にこたえますね。
 話は変わるようですが、欄間の師匠の生き方を少し紹介し、先のご理解について改めて考えてみたいと思います。
 師匠は、家業の欄間製作に幼少期より従事されました。早い話が、自分の親に弟子入りしたわけです。大勢の弟子の最末席からの出発でした。「親方の子供だからと言って特別待遇ではおまへん。掃除やお茶くみなど、一からですわ。すぐ欄間彫らしてもらえるわけやなし、道具さえ持たしてもらえまへん。当時の修業はみんなそんなもんだ。ああしろこうしろと親切に教えてくれるのではなしに、ああしろこうしろとは文句ばかりでっせ。そやから仕事は、親方や兄弟子の仕事を盗みますのや。盗むというと聞こえが悪いが、まあ雑用の間でもなんでも、目に焼き付け、耳で聞いときますねん。それで何でも真似しますのや。はじめは何をしても下手くそだ。それでもくさらずやり抜くことが大切でおます。休みの日、兄弟子たちは、大抵道頓堀の映画や芝居に出かけましたが、私はほとんど行ったことがありませなんだ。何をしてたかというと、一生懸命研ぎの練習をしたり、図案の工夫をしたり、一人作業場で過ごしました。ええ欄間師になりたいという欲はありましたが、遊びたいという気持ちはちいともあらしませなんだ。そんな修行を続けて何年もしているうちに、兄弟子を何人も追い抜いたわけです。どんな道でも、さからわずやり抜くことが大事ですな。」
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