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岡田典明(在籍補教)
命のバトンは信心から -79-

 カトリックの教えに追善供養の教えがなく、子孫の信心によって亡くなった親兄弟や先祖が救われることがないといわれると日本人は「泣くことをやめない」とザビエルは本国へ書き送っています。彼らが救われないのは、イエスの信仰者でないからというのがこの場合、唯一の理由なのです。救われないということは、地獄に落ちるという意味ですから、「あなた方はイエスの言葉を信じて天国へ行きなさい。」と説くのです。
 先祖供養を大切にしてきた当時の人々にとって、位牌やお墓の否定につながる信仰に、おいそれと改宗できなかったであろうことは想像できますね。
 一方、教祖様はどうでしょう。
 「先祖、先祖からの罪をわびよ。めぐりは、ひなたの氷のようにお取り払いくださる。」
 「先祖からのご無礼がありましょうとも許してくださいませ。日々に信心いたしますから、信心の徳をもってどのようなめぐりもお取り払いくださいませ。」
と言って願うがよい。
 「三つのご膳(ご神飯)」は、日乃大神と月乃大神と金乃神とに供えるということを、人から聞いたので、金光様にお伺いしたら、『それでもよいが、一つは天、一つは地、もう一つは天地の間に供えるのである。それは、信心する者はみんなの先祖先祖からの御霊に、神が分け与えてくださるのである。一心に信心する者が神に供えたものは、神から先祖に分け与えてくださる。ありがたいことではないか。』と仰せられた。
 など、我々自身の信心が、親先祖とつながっていることを、教えてくださっています。先祖の罪や無礼も、私どもの信心の徳でお取り払いくださるというのでありますから、先ほどの例とは異なり、安心できる尊いみ教えと申せましょう。さらに、信者が供えたものは、神様がそれぞれのご先祖に分け与えてくださるというのでありますから、なんと念の入ったお心づかいであるかと思わせられるのであります。
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