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巻頭言

扉絵集



在籍輔教 岡田典明
命のバトンは信心から -77-

 小学校四、五年の頃かと思いますが、いっとき桜の花に夢中になり、幾枚もの絵を描いたことがあります。木全体を描くより、一房か二房を精密に描くのが多かったように記憶しています。花や葉の形や色など、他にも優れた花が多いのに、どうして桜なのか当時は気付く由もありませんでした。
 大学入学後の研修で、松阪の山室山にある本居宣長のお墓に参拝しましたが、お墓の周りには、桜が植えられています。宣長には、「敷島の大和心をひと問はば朝日に匂う山桜花」という有名な歌がありますが、桜の花に一入の思い入れがあったようで、自分の墓に桜を植えるようこまごまと遺言しています。今日の樹木葬です。
 桜の名所と言えば、吉野山ですが、宣長と吉野のつながりは、その生誕のいわれに明らかです。どういうことかと申しますと、子に恵まれなかった両親が、子授けに霊験あらたかといわれた吉野の水分(みくまり)神社に祈願し、その甲斐あって生まれたのが宣長であったわけです。どうして水分神社が子授けに良いのか、わかりかねますね。そもそも水分とは字のとおり、水を配ることを本務とする神様として期待されていたのですが、いつしか“みくまり”が“みこもり”に転化していきました。すなわち、み子守です。これが子供を産み育てる神として意識されるにいたった経緯です。面白いですね。彼が桜の名所である吉野山を訪ねた動機は、両親への感謝と神様へのお礼であったわけです。有名な『菅笠日記』はこの折の旅日記です。このように宣長と桜の結びつきは吉野との関係を知れば了解できます。
 さて、桜と言えばもう一人、忘れがたい人物がいます。そうです。西行法師です。伊勢や二見にも一時隠棲したこともあり、何か身近に感じますが彼は生涯に膨大な数の桜の歌を残しています。中でも「願はくは花のもとにて春死なむそのきさらぎのもち月の頃」はあまりにも有名です。その願いの通り、その月のその日のころに世を去ったことは、その時代の人々に驚きと尊敬の念をもって受け止められました。河内の国の弘川寺にある彼の墓もまた桜の木に覆われています。二人にとって桜は生と死をつなぐ命の花であったのでしょう。
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