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扉絵集



岡田典明(在籍補教)
命のバトンは信心から -76-

 前号では、昨今の葬儀やお墓の事情について述べました。そこで気付かされることは、これらの事柄は、単に「死」の問題というだけでなく、「生」の問題だということです。このことは、「お葬式は、生きる儀式だと思う。…」という、テレビのコマーシャルで有名になりましたから。なるほどと納得された方も多いのではないかと思います。まことにその通りですね。生き残った者がどう生きるかということが問われている。と、とらえた方がよいのではないでしょうか。
 徒然草の三十段に、「人の亡きあとばかり悲しきはなし」で始まる文章があります。この一行を読みますと、(親しき人が亡くなった後ほど悲しいことはないなあ…。)と、人を亡くした悲しさを述べたように思いますが、全文を読んでみますと、実はそうではなく、残された人の行状について、作者の鴨長明が悲しいことだと言って嘆いている内容なのです。どういうことかと申しますと、当時は、四十九日が済むまで、家族、親せきは、山里に籠って追善に励んだようですが、その日が来ると、我勝ちに荷物をまとめて、ちりぢりに各々の家に帰っていく、その様は、まことに情味もなく、去る者日々に疎しのことわざのように、亡くなった当座ほどには悲しくないのだろうか、はてはつまらぬことを言って笑ってもいる。情けなく、悲しいことだ…。との思いを述べているのです。また、お墓もいつしか苔むし、思い出して慕ってくれる人があるうちはまだいいが、やがては、誰のお墓であるかも知られなくなる。松も千年を待つことなく砕かれて薪となり、古い墓は鋤かれて田となるの例えで形さえもなくなっていくのだ。と、述べています。
 時代状況は全く違いますが、この話には、現代に共通するものがあり、何か身につまされる思いがいたします。確かに古い家の墓を守っていくことは、今日の社会環境や、家庭の在り様から見れば、これを維持管理していくことは、至難の業であり、当事者の苦しみは想像するに余りあります。
 名も顔も定かではない、ご先祖を偲び、喜んでもらう生き方をする。との思いを忘れぬことこそが、風化を防ぐ唯一の手立てではないかと最近は考えています。
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