TOPページ



タイトル


インデックス

巻頭言

扉絵集



岡田典明(在籍補教)
命のバトンは信心から -74-

 祭りというのは、人が神様を待つから祭りであり、それが、祭り本来の意味であることは、そのとおりでありましょうが、もうひとつ腑に落ちないのです。前号で述べたとおり、祭り日には神様もまた人を心待ちにしてくださっているのではと、思えるからです。すなわち、神人ともに祭り合うことが、祭りの本来の意義ではないかと考えるゆえんです。教祖様のご伝記を読ませていただきますと、いわゆる『祭り日』とされるものがあり、その種類も色々あることがわかります。
 祭り日の中心が、月々の九日十日の「金光大神の祭り日」と、二十一日二十二日の「天地金乃神の祭り日」にあったことは、言うまでもありませんが、とりわけ九月十日を「金光大神祭り」、九月二十二日を「九月祭り」と呼んで、大切にされていたことに改めて思いを致さねばならないと思います。
 毎月、十日と二十二日には、ご本部の会堂広前で月例祭が執り行われますが、教祖様の時代に定められた、祭り日の在りように因んで今日にいたるまで、生き生きと仕えられているのです。この月例祭の奏楽ご用に、何度もお取立て頂きましたが、その都度、教祖様、神様はお待ちくださっているなあと実感しました。これは本当にありがたく不思議な経験ですが、あの場で奏楽をしませんと感じられない、実に確かな思いです。
 祭り日のほか、色々な「ご縁日」もお定めになっておられます。三日は「大将軍の縁日」、七日は、「子の星の縁日」、一日、十一日、二十一日は「天照皇大神の縁日」などがその例です。こうしたご縁日と祭り日を迎えるにあたり、何日も前から身を慎み、心の改まりをされながら、その日を待たれたのでありましょう。
 以上、神を待つから祭りと申してまいりましたが、一方で、もっと大切に思われますのは、天地金乃神様は祭りの日だけお出ましになるのではなく、いつでもどこでも、人の願いを待ってくださっている神様ということです。
to Top


TOP | 伊勢教会について | 教会誌-薫風 | ライブラリ | ひろば | リンク

Copylight (C) Konko Church of ISE. All rights reserved.