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輔教 岡田典明
命のバトンは信心から-97-

  数回にわたり、歴史的なものの見方といいましょうか、そういった視点が大切ではないか、と具体例を紹介しながら述べてまいりました。前回「私たちは、日々の生活を単に生きているのではなく、歴史の中で生かされているのであり…。」と申したのはそのようなことを踏まえてのことであります。
 著名な歴史上の人物だけが歴史上の存在ではなく、我々一人一人が、現代の今月今日、存在している、という事実こそが、歴史なのです。
 歴史には、人類の歴史、国の歴史、地方の歴史、家の歴史など様々に分類されますが、最近注目されているのが、自分史です。自分自身の歴史ということです。個人個人の人生の歩みと申してもよろしいか。当然のことながら、自分史を明らかにするためには、一番身近で関係の深い、家族の歴史を明らかにすることが不可欠です。自分史は自分だけでは成り立たず、家族をはじめ自分を取り巻く人々や、社会の動きとも密接な関係の中で形成されるものでありましょう。自分の歩いてきた道をたどることが自分史の目的であるとするならば、それは同時に家族史を究めることでもあるのです。
 教祖様は、明治七年に「ここに取次の広前を開いた金光大神の、生まれた時のこと、親の言い伝え、この家へ養子に来てからのこと、覚えにあることを前後とも書き出せ。…」とのお知らせを頂かれ、このお知らせによって書き始められたのが『御覚書』です。御覚書は、教祖様における自分史と位置付けられるべきものではありませんか。釈迦もイエスも自ら筆をとった自分史を書き残しておりません。教祖の事績や教えが、本人の筆によって書き残され、今日に伝えられていることの意義を改めて感じざるをえません。
 教祖様の自分史『御覚書』はその少し前から書き留められていた『覚帳』をもとに、さらに詳しく著述されています。そこには神様のお知らせや、ご自身の信仰体験が綴られていますから、「信仰履歴の書」と申してもよいかと思います。
 私ども信奉者にとっての自分史とは、この信仰の履歴を明らめることではないでしょうか。
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