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扉絵集



岡田典明(在籍補教)
命のバトンは信心から -73-

 前号で、「お祭りは、神様を待つからまつりというのだ、…」ということについて述べ、門松の松もそのことと関連していると紹介しました。もう少し神様と松の関係について触れましょう。
 日本の伝統芸能の代表といえば、まず最初に思い浮かべるのは、なんでしょう。そう、能と狂言ですね。他に歌舞伎と答える方もおられるでしょう。能と狂言が能舞台という特別の空間で演じられることは、みなさんご存知の通りです。さて、その能舞台ですが、そこには欠くことの出来ない、格別の装置と言いますか、ある絵模様があります。絵と言いますと、もうお気づきですね、舞台の正面の壁板(これを鏡板といいます) には松が描かれています。しかも老松です。能舞台には、この老松の絵がどうしても必要とされてきたのです。それはどうしてかと申しますと、この松は、「影向の松」といいます。神仏がやってこられる松とされ、影向は、(ようごう)と読みます。
 鏡板と呼ばれる正面の板壁に、影向の松が描かれていることから分かることは、能や狂言が神をお迎えして行われる芸能であるということです。神様に来ていただくのを待つから、松の木が描かれているわけですが、別の見方をいたしますと、そもそも芸能とは、神様に見せ、喜んでもらうのが目的であったのです。勿論これを鑑賞する人々の楽しみや喜びでもあったわけですが、このことは、能や狂言よりもっと古い、神楽(かぐら)にも共通する目的です。
 まつる・祭り・祀り・奉るは、それぞれ意味の通じる言葉で、すべて神仏を待つにかかわることであることがわかりますが、人が神を待つのが祭りの本義であることは理解できたとして、それだけでしょうかと私は、常々考えているのです。祭りの日は、神も人を待っていて下さるのではと思うのです。祭り日を心待ちしているのは、人ばかりか神様も、と思わせられるのです。
 このように考えますと、神・人ともに祭り合うことが、祭りの本当の意味とも考えられるのですが、いかがでしょうか。 
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