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扉絵集



在籍輔教 岡田典明
命のバトンは信心から -64-

 前号で、「教祖様ご誕生あっての金光教」であると申しましたが合点していただけたでしょうか。教祖様が二百年前にお生まれになり、ご一人から始まったお道の信心が、今日まで私どもに伝えられていることは、拝詞に、「神縁まことに不思議にして今この道に出で会うを得たり」とありますように、不思議にして、かつ尊い極みではなかろうかと、常々心の内でお礼申して居るようなことであります。
 たったお一人のご信心が、この二百年の間にどれほどの人々に受け継がれたのでしょうか。数百万人というような単位ではありますまい。それよりはるかに多い人々の助かりにつながったはずです。そうといたしますと、教祖様のご誕生が、ますます意義深いものに思われてなりません。我々信奉者にとって、亡くなられた年月以上に大切な日であると考えるゆえんであります。
 キリスト教や仏教においても、イエスや釈迦の生誕が祝いの日として信奉者に強く意識され、盛大な行事があることはご承知のとおりであります。しかしながら、このお二人のお生まれの年月には、研究者の間でも様々な説があり、正確に申しますとよくわからないというのが実情であります。これは何も両教を批判するために申しているのではありません。そうではなく、ここで大切なことは、生誕、逝去がともに、信徒の大事として位置づけられていることです。誕生日が不確かだから価値が薄れるというような、安直な意見ではないはずです。
 イエスや釈迦の生誕劇には、いずれも神秘的な奇瑞が伴っているのに対し、わが教祖様にはそのようなものが伝えられていません。生誕自体が奇跡のような壮大なドラマもないのです。そこが有難い事なのではありませんか。長い歴史を経るに従い、様々な伝説が付加され、歴史上の人物(史的イエス)から次第に宗教的な存在(聖者)としての色彩が、強調されるようになった先の両教との際立った違いとみてよいのではありますまいか。
「凡夫」と書き残された教祖様の平凡な誕生、有り難し。
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